プロフィール

吉井 竜二(よしい りゅうじ)

誕生日 1987年10月11日 生まれ

血液型 B型

【経歴】

1994年4月 西宮市立小松小学校 入学

1997年1月 西宮市立春風小学校 転入

2000年4月 西宮市立上甲子園中学校 入学

2003年4月 兵庫県立鳴尾高等学校 入学

2006年4月 大阪経済大学 経営学部 経営学科 入学

2008年4月 関西学院大学 社会学部 社会福祉学科 入学

2010年4月 バンダイナムコグループ 株式会社ナムコ 入社

2013年5月 株式会社ナムコ 退社

2013年11月 株式会社Pumpkins 設立

2014年2月 Music Café&Bar –Pumpkin Rocks- 開店

2015年4月 地方統一選挙出馬 当選

2015年6月 西宮市議会議員 政新会 所属

【自己紹介】

趣味 草野球、アニメ鑑賞、ゲーム、映画鑑賞、音楽鑑賞、最新家電の考察

好きな著名人 B’z、川本真琴、木村拓哉、小室哲哉、浜田雅功、イチローetc..

長所 ポジティブなところ。「ありがとう」とすぐに言えるところ。

短所 睡眠時間が長い。朝ベッドからなかなか出られない。

 

エピソード

【誕生〜幼少期】

  • 1987年(昭和62年)10月11日、西宮市若草町生まれ。
  • 4人兄弟の末っ子、四男として育つ。子供の頃は歳の離れた兄弟たちに可愛がられた。(長兄=12歳、次兄=10歳、三兄=8歳離れている)
  • ドラゴンボールが大好きで毎日ドラゴンボールに登場するキャラクターの絵を描いていた。この習慣は大学卒業まで続く。
  • 性格は負けず嫌いで、「どうすれば8~12歳離れた兄達に追いつけるのか」という事ばかり考えていた。
  • 将来の夢は「スーパーサイヤ人」になることだった。
  • NHKの「みんなのうた」「えいごであそぼ」という番組が好きで、毎日欠かさず観た。中でも「パフ〜魔法のりゅう」という歌が大好きで歌詞もわからず、デタラメに歌っていたらしい。(家族談)
  • 当時人気だった、飯島愛さんがお尻を出してテレビに出ると、必ず、テレビの目の前まで行って、お尻を眺めていたらしい。(家族談)

 

【小学生時代】

  • 1994年4月 西宮市立小松小学校に入学。
  • 僕は幼稚園に通っていなかったので、小学校の人の多さに「学校は毎日お祭りするところなんだ〜」と真剣に思っていた。
  • ゲームが好きで、スーパーファミコンのボンバーマンやストリートファイターをよくプレイした。
  • 漫画は『ドラゴンボール』『幽遊白書』『スラムダンク』が好きだった。
  • 小学1年生の頃にJリーグが開幕。サッカーが流行った。僕もサッカーが好きだったし、サッカーを習おうと思っていた。しかし、何故か家に少年野球の監督が来て、半ば強引に野球の練習に連れて行かれた。何が何だかわからなかったが、どうやら僕は地元の少年野球チーム『西宮ビクターズ』に入れられたみたいだった。笑
  • 基本的に両親は仕事で忙しかったが、毎年春と夏に「ドラゴンボール」の映画に連れて行ってくれた事が嬉しかった。
  • 勉強は全般的に得意だった。一番好きだったのは、体育。次いで図工、国語だった。
  • 好きな食べ物は「お寿司」だった。中でもイクラが大好物で、「イクラ」という名前を知らなかった僕は「プチュプチュ」と言って注文していたらしい。
  • 小学生の頃は絶対夕方で真っ暗になるまでは家に帰らなかった。毎日外で友達と遊ぶのが本当に楽しかった。
  • 家族は「勉強しろ」とは一切言われなかったが、お箸の持ち方や食べ方には厳しく言われた。
  • 将来の夢は「プロ野球選手」と「社長」になることだった。
  • 小曽根公園では毎日鬼ごっこをして遊んだ。
  • 小学3年生の1月に春風小学校に転入した。
  • 少年野球では人数が少なかった為、小学3年生からずっと試合に出場していた。少年野球は小5までのびのびやっていたので楽しい思い出ばかり。
  • 小学5〜6年生の時には自分の代のキャプテンになった。超が付くほど弱小チームだったが、5年生から総監督という昔強かった頃の監督が練習に来るようになり、無茶苦茶しんどかった。そのおかげで、僕がキャプテンの代は市内の大会で4回も準優勝した。僕自身はあまり上手な方では無かったが、みんなで達成した準優勝は本当に嬉しかった。銀メダルは今でも宝物。
  • 小学3年生の頃にB’zを初めて聴き、体中に電撃が走った。ボーカルの稲葉浩志を心の師匠とすることに決めた。笑
  • 当時の音楽は「PUFFY」や「SMAP」「SPEED」といったアイドルグループが全盛期だったので、B’z好きな僕は友達の話について行けなかった。笑

 

【中学時代】

  • 西宮市立 上甲子園中学校に入学。
  • 小学生の頃は一緒に遊んでいた友達たちが、優等生になったり、不良になったりとガラッと多様に変化していくのを観察するのが楽しかった。
  • この時僕は、優等生でも不良でもなく、女の子に一番モテそうな「爽やか系スポーツ男子」になろうと決意した。我ながら、当時のこの判断はナイスだったと思う。笑
  • 中学時代は車が好きで、中でも「フェラーリ」「BMW」が好きだった。大人になったら絶対乗ろうと考えていた。
  • 野球では、学校の部活には入らず、「西宮フェニックス」という地元の硬式野球チームに入団した。理由はユニフォームがカッコ良かったから。笑
  • 「西宮フェニックス」では小学生の頃に一度もやったことがなかった「ピッチャー」をすることになった。はじめはピッチャーが嫌で嫌で仕方が無かった。
  • 学校生活では中心的な生徒だった。爽やか系、優等生系、不良系、オタク系、誰とでも仲良かった。
  • 先生たちに口答えすることも多く、生意気な生徒だったが、当時の先生たちの器が大きかったので、先生たちとは割りと仲がよかった。
    ⇒大人になって、独立・開店後に中学時代の先生数人が自分のお店に来てくれた事は本当に嬉しかった。
  • 中学1年生まで勉強は得意だった。しかし、中学2年で反抗期を迎えてしまい、とっても不真面目になってしまった。学校の成績もガクっと落ちた。
  • 中学3年生に上がるとき、担任の先生に「アンタ、このままじゃ皆と同じ公立高校に行けないよ」と言われ、「真面目に生きよう」と決意した。この時、僕の反抗期も静かに幕を閉じた。
  • 野球では中学3年生でもピッチャーを続けていた。あまり結果が出なくて、個人的に悩んだ。
  • 将来の夢は「プロ野球選手」と「社長」だった。
  • 上甲子園中学のたくさんの先生の応援もあり、なんとか西宮の公立高校の試験に合格した。

 

【高校時代】

  • 兵庫県立 鳴尾高等学校に入学。
  • 志望の決め手は①『中学当時好きだった女の子が「鳴尾高校に行く」と言っていた事』と、②『近所の高校で唯一、野球部が坊主じゃなかった事』。なんとも中学生らしい理由だ。笑
  • 高校時代は3年間みっちり野球に打ち込んだ。
  • 僕は1年生の頃から試合に出場していた。先輩に負けないように、自分で考えながらトレーニングに励んだ。
  • 3年生が引退してからの新チームでは1年生ながらレギュラーになれた。以後卒業するまではフルイニング出場した。1年生の時のポジションはセンターだった。
  • 秋の大会では60年ぶりの『兵庫県大会ベスト4』という好成績を収めた。強豪の滝川第二高校にコールド勝ちしたり、と公立高校が破竹の勢いで強豪をなぎ倒していった為、当時は新聞でも話題になった。そして、僕ら鳴尾高校は21世紀枠の兵庫県代表校になった。(後に僕らには全く関係無い、過去の不祥事で取消となる)以後、この野球部で僕ら以上の成績が出たことは無い。
  • 当時の鳴尾高等学校野球部は公式戦でもブラスバンドなどの応援は一切なく、メンバーの半数以上はベンチ入りという状況だったので、父兄の方々がペットボトルに砂を入れた自家製グッズで応援してくれていた。ブラスバンドやメンバー入りできなかった部員などが派手に応援するのが当たり前の高校野球の県大会において、この姿はちょっと変だったと思う。しかし、他校にどう写っていたかはわからないが、相手高校のブラスバンドや太鼓の音にかき消されながらも力一杯応援してくれる父兄の方々の熱意が本当に嬉しかった。大会で負けた時は悔しかったが、父兄の皆さんへの「ありがとう」という思いが大粒の涙となった事が僕の中で印象深い初めての経験だった。
  • 当時の高校野球部の仲間とは先輩後輩別け隔てなく今でも交流がある。
  • 当時、よく衝突した野球部の監督には感謝している。お山の大将そのものだった僕に対して毎回本気で叱り、指導してくれた事は成長に繋がったと思う。
  • 野球部では2年生の秋からエースとしてチームを引っ張った。公式戦で1勝も出来なかった。本当に悔しい一年だった。
  • 学校生活では何かと中心的な生徒だった。
  • 記憶では文化祭、体育祭などの行事はほぼ優勝したり、表彰された。なかなかの勝ち運だった。笑
  • 勉強は体育と英語が得意だった。
  • スポーツテストでは3年連続学年1位だったと思う。スポーツバカだった。
  • 英語の勉強は楽しかった。模擬試験でもたまに英語の成績だけ上位5%とかに入っていた。
  • 英語と現代文以外の教科については全くダメだった。英語と国語の成績が学年9位(240人中)でもその他の成績が全て学年最下位を取ったこともあった。結局、総合成績では学年でも下位10%だったと思う。笑
  • あとマーク式模擬試験の古典では4回連続で『0点』を取ってしまった。4択問題で、当てずっぽうで回答しても確率的には『25点』は取れるという試験で僕は4回連続、計100問以上連続で4択を外したのだ。このときはさすがに先生に『アナタ、本当は天才的に古典出来るんでしょ?』と天才と疑われた。笑
  • 高校時代はとにかく寝る間を惜しんで活動した。朝⇒学校、昼〜夕⇒部活、夜⇒学習塾or友達と遊ぶ、深夜⇒ネットゲーム。毎日4時間ぐらいしか寝ていなかった。
  • 大学受験のシーズンになり、僕は受験する大学を『関西学院大学』と決めていた。英語と現代文は十分に合格圏内だったので、合格すると思っていた。
  • 大学入試本番では、第一志望の関西学院大学はおろか、第二志望、本来滑り止めと思っていた大学まで、全ての大学試験に『不合格』だった。
    ⇒このとき、人生で初めて『負け』を味わった。
  • その後の後期入試で大阪経済大学の合格を手にした。
  • そして、この時2年後の3年次編入試験に合格し、『関西学院大学』に絶対入学する事を決意した。

 

【大学時代】

  • 大阪経済大学 経営学部 経営学科に入学した。
  • 僕の中で、大学入学後はどうしても『受験失敗=負け』という事実が受け入れられなかった。
  • 大学では野球部には入らなかった。なぜなら、当時の僕の中は『関西学院大学』に入るという目標が支配していたから。その為には全力で勉強しようと決めた。
  • 3年次編入を志してから、毎日10時間は勉強した。
  • 大学で学ぶ経営学の勉強も怠らなかった。大学での成績は8割は『優』だった。大学時代の4年間は本当に勉強しまくったと思う。
  • プライベートでは「パンプキンズ」という草野球チームを作った。僕が代表でキャプテンでエースという何とも好き勝手なチームだ。
  • パンプキンズは神戸の連盟に所属し、毎週末社会人のチームと試合をした。成績は連戦連勝だった。本当に強いし、楽しいチームだった。(今も活動中)
  • 大学生活も寝る間を惜しんで活動した。朝〜夕⇒大学、夕〜夜⇒編入勉強、深夜⇒友人と遊ぶ。友人からはいつも「竜二はいつ寝てるの?」と言われていた。笑
  • 大学2年生の10月に人生が大きく変わった。

⇒念願だった関西学院大学の編入試験に合格した。
⇒僕の人生史上、この合格発表よりも嬉しかった事は未だ無い。そのくらい感慨深い出来事だった。
⇒この日からそれまでは何かに流されていた僕の人生は僕のものとなった気がする。僕は大きく変わった。

  • 2008年4月 関西学院大学 社会学部 社会福祉学科 3年次編入学。
  • 大阪経済大学では経営学を専攻し、2年次終了時点で卒業に必要な3/4以上の単位を履修していた。なので、これから2年間は経営ではなく、僕の中で一番未知だった「社会福祉」という分野を学ぼうと思い、この学科に入学した。
  • 関西学院大学に入ってからはこれまで以上に多忙な日々の連続だった。
  • 大阪経済大学のときに履修した94単位は関西学院大学では18単位しか認められなかった。(経営学科⇒社会福祉学科だった為、被った内容の授業が殆ど無かった)この数値は留年生よりも低い水準で、18単位から2年で卒業且つ、就職活動を不利なく行うには、これから2年間毎日8時間勉強し、自分の受けた講義のテストを一つも落とすことなく、全て履修する必要があった。
  • 僕は腹をくくった。それからは毎日8時間勉強した。
  • 大学のテスト&レポートの時期ははっきり言って地獄だった。
    ⇒一般的な大学生のテスト&レポートの量=テスト4教科、レポート2教科ぐらい。
    ⇒それに対し、僕の量=テスト14教科、レポート8教科が毎回だった。
    高校時、大学受験に失敗した過去の自分を呪った。笑
  • 関西学院では再び本格的に野球を始めた。関西学院には純粋な「軟式野球部」というものは無かったので、実質的「軟式野球部」である野球同好会BISONに入部した。(関学の「軟式野球部」は実質的には「準硬式野球部」だった。)
  • 野球部の大会ではピッチャーとセンターで試合に出た。
  • 本気で打ち込んだ為、4年生の頃には軟式野球の関西六大学軟式野球連盟の選抜にも選ばれた。
  • 草野球でも神戸約350チームの頂点を決める「オール神戸軟式野球大会」に所属リーグの代表として出場し、見事優勝した。これは自慢だが、僕は大会のMVP「最優秀選手賞」にも選出された。
  • 3年生の秋には「リーマンショック」が起きた。
  • 当時の僕らの就職活動は「団塊の世代が抜ける時代」だったので、超ラッキー世代と言われていた。しかし、僕らの就職活動は何の前触れも無く、超氷河期を迎えてしまった。
  • 僕はこれまでの大学3年間で誰よりも勉強したという自負があったし、スポーツでも結果を出したので、就職活動には何の心配も無かった。というか、自信満々だった。
  • 周りの友人は100社、200社の採用試験を受けていたが、僕は自分が行きたいと思った大手9社のみに照準を絞った。
  • 第一志望はバンダイナムコグループだった。バンダイ、ナムコ、バンダイナムコゲームスであれば、どこでも入りたかった。
  • 数100倍という倍率をパスし、僕は第一志望の「株式会社ナムコ」の内定をいただいた。これは入社して思った事だが、この会社は本当に僕にピッタリだったと思う。これほどフィーリングが合う会社に巡り会えた事に感謝です。
  • 大学4年生になり、社会福祉を学ぶ中で僕の価値観は大きく変わっていった。

それまで「社長=起業家=経営学」という視点で動いていた僕は、資本主義の原理から、無意識のうちにマジョリティーの声にだけ耳が傾くようになっていた。しかし、社会福祉とはその真逆で、少数派の悲痛な叫びや、セーフティーネットをどうしても必要とする声が多く聞こえてくる分野だ。これは当時、僕の中でカルチャーショックだった。「自分はなんて小さな世界で生きていたんだろう」と思った。
⇒このとき、漠然とではあるが、起業して成功したら、政治家になって経営の目線と社会福祉の目線で、より良い社会を作れるような人間になろうと思った。

  • 大学卒業時の僕のビジョンはこんな感じだった。
    ⇒22歳=ナムコ就職、30歳前後=独立起業、45歳前後=政治家。
  • 学生時代にやり残した事はもう無かった。本当に幸せで充実した学生時代を過ごした。そして、将来のビジョンに向け、僕は社会人の一歩を踏み出した。

 

【ナムコ時代】

  • 2010年4月 バンダイナムコグループ 株式会社ナムコ 入社。
  • 人生初の勤務地はなんと「仙台」だった。
  • 最初の仕事内容は所謂ゲームセンターの店員さんだった。
  • ナムコ社員時代は一人前のマネージャーになるため、「ヒト・モノ・カネ」という経営資源をどう上手く使って、会社に利益をもたらすのかを日々叩きこまれた。
  • 就任当初はスタッフの信用を得ていなかったこともあり、なかなか業務が上手くいかない日々が続いた。しかし、次第にスタッフとの信頼が生まれ、成果が認められ、一年目の終わりには16名の部下が出来ていた。
  • 当時僕を指導してくれた上司には今でも感謝、尊敬している。今のロールモデルであるし、これからも僕のロールモデルになり続けるだろう。
  • 1年目の成果が認められ、僕は2年目でナムコで一番売上の高い店舗の一つに転勤することが決まった。
  • そんな矢先、「東日本大震災」が東北を中心に日本を襲った。
    ⇒僕は偶然出張で埼玉県にいた為、東北での被災は免れた。
    ⇒この日、100人以上の知人・友人から「大丈夫か」という旨の連絡があり、本当にありがたかった。
  • 埼玉での被災だったが、震災後は悲惨でなかなか仙台に帰れず、ヒッチハイクしながら、漫画喫茶などで寝泊まりして数日過ごした。
  • 数日後、ようやくバスで東北に帰る事が出来た。
  • ようやくの思いで帰ってきた仙台の景色は悲しげで絶望的で悲壮感が街全体を覆うような、なんとも言えない光景だった。僕はこの日の仙台を一生忘れる事は無いだろう。
  • 街には「避難所」「遺体安置所」ばかりだった。
  • 仙台での知人の多くは、遺体安置所を巡り歩いて、行方不明になった家族や友人の姿を確認する毎日を過ごした。
    ⇒遺体安置所での遺体を確認して、絶望でも安堵でもない、人間にこんな表情があるのかという物悲しく、気が狂いそうな状況は地獄だった。
  • この時、僕は知人に対して何も声を掛けられなかったし、「無力さ」を呪った。
    ⇒この時にこの経験は「悲しかった」だけでは終わらせてはいけない、何か使命感のようなものが僕の中に生まれた。
  • 数日間の復旧作業の途中で僕は次の勤務地である、埼玉に引っ越しすることになった。

【2年目】

  • 2年目の勤務地は「イオン越谷レイクタウン」という埼玉にある、日本で一番大きいショッピングモールにあるゲームセンターだった。西宮ガーデンズが4つ分ぐらいある。
  • 埼玉での仕事は順調そのもので、目に見える飛躍の年だった。
  • 一年間で僕は予算プラス4000万円の利益を生み出し、それが評価され、次年度で最年少店長の切符を手にした。
  • とにかく、やることなすこと成功した一年だった。
  • だだし、毎日深夜2〜3時まで働いていたので、楽だったわけではない。笑

【3年目】

  • 当時の最年少店長として大分県中津市の店舗へ転勤。
  • この一年は本当に苦労した。売上が上がらなくて、毎日遅くまで数字と睨めっこした。
  • いなか町の中津市で僕は従来のお金を使ってもらう「ゲームセンター」をやめた。お年寄りや小中学生の「居場所」を作ることに決めた。
    ⇒ゲームセンターなのに、お金を持ってない小学生や、店内でニンテンドーDSをしている子がいたり、おばぁちゃんの今晩のおかずの相談に乗ったりと、中学生の恋の悩みを聞いたりと、はっきり言って「何屋さんかわからない」お店が出来上がったが、客数が飛躍的に上昇し、地域で一番のお店になった。
  • 結果的にこのお店は年末年始で過去10年最高の売上をだした。
  • このとき僕は明確に「独立起業後のビジョン」がイメージ出来た為、僕は本来予定していた30歳前後での退社を5年も前倒しで25歳のときに退社を決意した。
  • ナムコでの3年間は「やり抜いた」という一言に尽きる。
  • 最高の上司、最高の部下、最高の同期、最高の仲間だったからこそ、頑張り抜けたし、この会社だったからこそ、今の僕がある。心から感謝。
  • 超がつくほど円満退社だった為、当時の部長や役員の方々が今でも大阪出張の際には僕のお店に寄ってくれる。

 

【退社〜独立まで】

  • 2013年5月 株式会社ナムコを退社。
  • 僕のやりたい事は決まっていた。ミュージックカフェ・バーを作ることだった。退職してすぐに僕は独立に向け、準備をした。
  • 早速、事業計画書を作成し、不動産屋さんを回ったが、考えが完全に甘かった。
  • 「25歳」という年齢の社会的な信用の無さに驚愕した。何十店舗も不動産屋さんを回ったが、全く相手にしてもらえなかった。「また連絡します〜」と言って、全く連絡が来ない業者が90%以上だった。
  • 周りからは「再就職すれば?」「竜二ならどこでも転職できるよ!」「ウチの会社来るか?」など本当に多くの心配の声をいただいたが、「やってやれないことはない」と思っていた。
  • 物件探しが本当に上手く行かず、何度も心が折れそうになった。だが、こういうときには必ず友人たちが僕を励ましてくれた。「竜二が成功できへんかったら、俺らの大体が無理や。俺らの将来の希望の為にもさっさと成功しろ!」など、本当に熱い言葉を掛けてくれた友人たちには今でも頭が上がらない。
  • そんな矢先に、今の店舗を紹介してくれた不動産屋さんに飛び込んだ。その担当さんは若くして夢を追う僕を本気で応援してくれた。そして、今の物件が見つかった。
  • この時期に、これから共同経営していく事になる仲間2人が会社を辞めた。つまり、僕はもう引き返せないということだ。
  • 僕はこの後すぐに「株式会社Pumpkins」を設立した。
  • 物件が決まり、次の段階は日本政策金融公庫にお金を借りる事だった。
  • この資金調達がこれまでの「人生で一番の試練」だった。
  • 両親、兄弟、友人の両親、友人など本当にたくさんの人が協力してくれた。
  • 数日前まで見ず知らずだった内装業者の社長さんは「こんな頑張ってる若い子がおんねんから、この夢は絶対叶えなアカン。内装費は気にせんでええから、頑張れ」と言ってくれた。
  • たくさんの協力とたくさんの奇跡が重なって、僕は融資を受けることができた。
  • 2014年2月 大阪梅田にMusic Café&Bar –Pumpkin Rocksを開店した。

 

【オープン〜現在まで】

  • オープンして2ヶ月ぐらいはたくさんの友人がお店に遊びに来てくれた。
  • しかし、問題は山積みでお店が地下だったため、お客さんは友人以外いないという状況が続いた。
  • 畳で言うと100畳以上、大阪梅田の一等地だったので、家賃がものすごく高かった。
  • このままでは3ヶ月後には倒産という危機だった。借金1300万円がのしかかる。この時期は食事も喉を通らなかった。夜も眠れなかった。
  • 大きく経営方法と転換し、結婚式の二次会や、起業のパーティーなど「貸切」に特化したお店を作った。
  • これが大ヒットし、今では月に15件以上は「貸切パーティー」が入るようなお店になった。多い月では20件も超えた。ぐるなびの担当さん曰く、梅田で「貸切件数1位」との事だ。
  • あれだけ怖かった借金も1年で総額の半分を返済できた。8年で完済という計画だったので、このペースは順調そのものと言える。
  • 店舗が順調になるにつれ、「2店舗目」の事業拡大のお話や、「飲食店のコンサルタント」の話が舞い込み始めたが、今はこれらの全てをお断りしている。
  • なぜなら、僕にはやるべきことが明確に決っているからである。
  • 若いこのエネルギーを僕の大好きな故郷「西宮」のために全力を注ごうと決意した。

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